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こころの話 義足 膠原病

何のために生きる?人生の意味を探して苦しむ私を救った母のひとこと

ハロー!うくれれです。

 

病気、事故、災害、大切な人との別れ、破産など、自分のキャパを越えるほどの困難に直面した人間って、なんのために生きているのかと、人生の意味を深く考えて苦しむことは珍しくありませんよね。

 

私は脚を切断してから、なぜ自分がこんな目に合わなければいけなかったのか、生まれ持った足をなくしたことに何か特別な意味があるだろうかと考え、辛かった時期がありました。

 

そんな私に母がかけたひと言が、当時の私の心を軽くし、今でも印象に残っています。

 

この記事では、母からかけられたそのひと言について綴っていきたいと思います。

 

足を切断し生きていることや人生の意味について考えて沼にはまる日々

生きている意味が分からない

 

持病の膠原病が再燃し、右足にできた血栓が原因で切断にいたったのは今から4年前のこと。

 

そのころは、突然目の前に降りかかってきた衝撃的な出来事に、へとへとになりながらついていくのがやっとという状態でした。

 

考えることといえば、歩けないこと、将来への不安、自責、後悔、恨み言、旦那や子供たちへの申し訳なさなど。

 

ありとあらゆるマイナスばかりにとらわれていました。

 

それまでの人生で、膠原病という持病と一生付き合っていくというのは当たり前としてとらえていましたが、病気のせいで足がなくなるなんて心の片隅にもありませんでしたから、ショックですよね。

 

とはいえ、流れる時間は止めることができませんから、もがきながらも時は過ぎ、義足で歩けるようになりました。

 

歩けるようになると少しずつ心に余裕が出てきて、これまで後悔や自責の念でいっぱいだった思考が、だんだんと余計なことを考え始めます。

 

どうして私だったんだろう?

どうして足がなくなったんだろう?

足をなくした後で生きる意味って何なんだろう?

何か特別なことをしなくてはいけないのか?

苦難の人生を背負う意味は何なの?

自分は何のために生きているの?

 

こんな風に、人生の意味について考えては、苦しみに浸っていたのです。

 

当時の自分は、義足で歩けるようになったことを誇らしくもなんとも思えなくて、ただただバカだったと、自分で自分の人生をめちゃくちゃにした大バカ者だと攻めてばかりでした。

 

SNSなどで目にする義足ユーザーの人達は、困難を乗り越えて自信をもって生きていて、その生きざまがたくさんの人たちに勇気を与えている。

 

私はそんな立派な意味のある人生を歩んでいるとは思えないし、そうなるとも思えない。

 

膠原病の薬もめちゃくちゃ増えたし、血液検査もめちゃくちゃ増えたし、足はないし、これから楽しいことなんかあるんかな。

 

生きてて何の意味があるんだろう、自分は何を背負っているんだろうと。

 

スマホの検索履歴には「生きる意味」「人生とは」「何のために生きるのか」「生きている意味が分からない」などなど、壮大なキーワードばかりが並ぶようになりました。

 

足がなくなってからず~っと疲れていたんだけど、心に余裕ができたことで、気付いていなかった疲れを自覚できるようになったのでしょうね。。。

 

何のために生きる?人生の意味を探して苦しむ私を救った母のひとこと

母のひとこと

「何のために生きているのか」という大規模な問題を心に抱えていた私。

 

そのころは足を切断してから半年以上たっており、仮義足での生活になれたため、いよいよ本義足へ移行することになりました。

 

新しい義足に移行するときって、一発で自分の足に合えばいいのですが、だいたい何度か調節しながら、痛みやズレがないように仕上げていきます。

 

仮義足の時に体験しているのに、数か月たってそういうプロセスがあることを忘れていた私。

 

受けとったばかりの本義足が合わずに痛みが生じた時、なんで?なんで?とプチパニックになったことがありました。

 

うくちゃん
心が弱ってたんだねぇ。
猫パンチがヘビー級ボクサーのパンチに感じる位弱かったよね。
れれくん

 

生まれ持った立派な足なら、何にもしなくても立派に歩けるのに。

 

そんな素晴らしい足を無くして、義足で苦しんでいるなんて、バカなことをしてしまったと情けなくなって、久しぶりに大号泣!

 

義足で歩けるようになってから少しずつ心に余裕を取り戻しつつあったのに、またゼロから全部やり直しのような気分になっていたんですね。

 

家の中にはプチパニック真っ最中の私だけ。

 

「もう何もかもめちゃくちゃ!」と、こらえきれなくなり、誰かがそばにいないとおかしくなりそうで、日本の母にライン通話をかけました。

 

応答するとすでに号泣している私の声が聞こえてきたので、母はビックリしたことでしょう。(またか、と思ってたかも?)

 

「どうしたん?何があったん?」と涙のワケを聞き出そうとするも、電話口の娘はしゃくりあげるだけで何もしゃべらない。

 

しばらく泣き続けた後、新しい義足で歩くと足が痛くてたまらないこと、また全部やり直しかと思うと辛すぎる、なぜ自分は病気になったのかなど、苦しい気持ちを絞り出すように伝えました。

 

そして、誰にも言えず胸に抱えていた「何のために生きているのか」という苦悩も吐露したのです。

 

口に出す前にかなり躊躇したんですけど…なんせ相手は自分をこの世に生み出した母親ですから。

 

躊躇したけれど、自分を生み出した人にこの質問を投げかければ、何か答えが見つかるのでは?と頭の片隅にあったのも事実です。

 

自分が生んだ子供に「生きている意味が分からない」と言われた気持ちを考えると・・・辛いですよね。

 

しかし、母が私に返した言葉は、

 

「生きてる意味なんて、そんなもんは無いのよ。」

「何のために生きているかなんて、そんな難しいこと考えてどうするの。

毎日毎日めぐってくる日々をただこなしていくだけじゃないの。

そんなもんに意味をつけようとしてこじらせているだけだよ。

今日も3時になったら子供たちが帰ってくるんでしょ、そしたらご飯を作って、片付けて、夜になったら寝て、また朝起きるだけ。

それだけだよ。」

 

という、とってもシンプルな、人生は流れ作業!みたいな答えが返ってきました。

人生は流れ作業

 

「生きていればいいこともあるよ」というように、励ましや慰めの言葉が返ってくるかなと思っていたので、すごく手ごたえがなかった!

 

暖簾に手押しみたいな、爆弾落としたのに不発で終わったみたいな、そんな気持ちでした。

 

とっても拍子抜けしたんだけど、人生に意味はないという母の言葉に妙に納得させられてしまったのです。

 

それと同時に、自分の人生を壮大に考えすぎていたんだなと、少しだけわれに返ることもできました。

 

毎日を淡々とこなしていくだけ。

 

確かに、人生ってそれを繰り返すだけだよな。

 

病気だろうが健康だろうが、人間は目の前を生きる以外にやることは無いですよね。

 

足を失ってしまい、失望の中で自分がすごく不幸で特別な運命を背負っている選ばれし者だと思い詰めていたけど・・・。

 

それ以来、人生の意味について考え、深みにはまりそうになったら「どうせ意味なんてないんだから、人生なんて。」という母の投げやりな(?)言葉が頭をよぎるように。

 

思い出すとなんだかどうでもよくなって、いつの間にか生きている意味を考えてしまうループを抜け出していました。

 

希望でも慰めでもなく、ただの現実を突きつけてきた母に、毎度のことながら救われたのです。

 

もしこれを、自分を生んだ母親ではない誰かに言われていたら、私の受け取り方も違っていたかもしれないですけど、母のパワーって、いくつになっても強いんものだな~と思うのでした。

 

まとめ

あれから4年近くたちますが、今は全く人生の意味を考えたりすることはなくなりました。

 

母が言ったように目の前の事をただこなしていく日々を送っています。

 

でも以前と違うのは、何でもない日々をしっかりと「生きてる」って思いながらこなしている所かな。

 

やっと取り戻した、意味がないけど大切な大切な普通の毎日ですから。

 

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